diary

バロック詩の情報。

維納ふう有害情報

問: 世界史を7 文字で要約せよ。   解答
問: 有名な神々を1文字で要約せよ。 解答


1️⃣アインシュタインのネーミングをダサくする

  • ダークエネルギー ➡️ 宇宙拡張定常項
  • ブラックホールの情報蒸発問題 ➡️ 非古典巻戻不可能問題
  • 重力レンズ ➡️ 幾何光路多重化効果
  • 光速度不変の原理 ➡️ 因果伝播上限一定の原理

2️⃣死によるクオリア消滅で直に味わう恐怖は、迷子😿1回分 (試すなよ)

 

 

*1:ローマは滅んだ

*1:🌞

ジャン・ド・ラセペド⑤ビフロンス

☮「定理」は形式としての両面性:ソネットと、細かくつけられた散文の注釈が「同一作品」になっており、両面性(ビフロンス)がある
☮黙想(見る/感じる)と、注釈(根拠づけ/読み直し)が往復する、さながら膨大な「書物の図書館」がいったんソネット大にギュッと凝縮され、それが注釈の仮説・議論で再び問い直される、という運動である。

愛が彼をオリンポスから下らせた:
愛が彼に人の罪を負わせた:
愛が彼に血を流させた:
愛が彼に唾を吐きかけられる苦しみを与えた:

愛が彼の頭にこの棘をつけた:
愛が彼の母に、彼がこの木に吊るされるのを見せた:
愛が彼の手にこの無骨な釘を打ち込んだ:

彼の愛はとても大きく強い。
地獄に襲いかかり、死を打ちのめす、
従順なエウリュディケを冥府の王プルートから奪い返す。

愛する人よ、この英雄があなたを愛して死んだのは誰のためか:
これほど残酷な苦痛がかつてあっただろうか、
これほど完璧な恋人がいただろうか。

( Via https://catholicexchange.com/the-poet-of-the-passion-of-christ/ )

“詩として”やってること

  • 第1四行連×2(1–8行):出来事の羅列(受難の場面を「愛が…」で畳みかける)

    • 降下(オリュンポス→地上)=受肉
    • 罪を負う=贖罪(身代わり)
    • 血を流す/唾をかけられる=受難の辱め
    • 「haliers(茂み)」=茨の冠
    • 母が木(十字架)に吊られるのを見る
    • 釘/埋葬 (この“黙想の駅”の組み方自体が『定理』の得意技)
  • 第3連(9–11行):愛の勝利(地獄・死に突撃して倒す)

  • 終結(12–14行):神話の転用+呼びかけ(「美しい人」へ、完璧な恋人=キリストを見よ)

ここで重要なのは、詩の側があえて異教神話(オリュンポス/プルトン/エウリュディケー)を、情動の加速装置として大胆に使っている事である。

👆に対して“自己注釈”がやること:神話を「正しい比喩」に変換して固定する

ソネットの心臓部(11行目)

従順なエウリュディケを冥府の王プルートから奪い返す。

これについて、ラセペドは注釈で次のように種明かしする(要旨):

  • 「エウリュディケ=彼(キリスト)の教会」である
  • オルフェウスの冥府下り(寓話)から、キリストの“真の”冥府下り(リンボー/辺獄)へ接続する
  • そこで救い出されるのは「教会」=(具体的には)旧約の義人たち(Saints Pères)である
  • さらに「エウリュディケ」は「真理」に通じる名で、教会にふさわしい、といった語源的な当て直しもする (これは「異教趣味」を避けるために当時よく行われたこじつけで、現代で言うような「語源の共通性」はない)

つまり詩は、いったん神話を借りて“眩しい”比喩を立ち上げる。しかし注釈で、「これは神話の娯楽ではなく、救済史の対応関係(オルフェウス→キリスト)として読め」と釘を刺す。ここに作品の両面性がある。

両面性を一言で言うと

  • 詩(ソネット):読者を“目撃者”にして、受難の場面を強制的に見せる(反復「愛が」が、感情と視覚を駆動する)
  • 注釈(散文):その見え方を、聖書解釈(特に予型解釈・寓意)と教会的枠組みに回収して、意味の暴走(ただの異教趣味、ただの恋愛詩化)を止める

このソネットはとりわけ、「詩が異教神話へ踏み出す」→「注釈がそれを“正統な読み”として回収する」という往復が顕著である。この込み入った注釈が、「定理」を知る人ぞ知る、読者の限られた作品にしてしまっている。

ジャンバッティスタ・マリーノ⑪市場の愛

雪像のアフロディーテ

雪でできた愛、
他人には冷たい氷に見えるだろうが、
私は氷ではない、燃え盛る炎だ。
氷と呼ばれるべきなのは、
愛を感じない女。
むしろ氷なのは、あなたたちのほうだ、愚か者たち、
あの美しい双眼の太陽の下、焼かれ溶けていくのだから。

砂糖の貴婦人

誰がそんなことを言ったのだ、恋人たちよ、
「愛は苦く、悩みと涙に満ちている」と?
それを信じる者は愚かだ。
それを見抜けぬ者は盲目だ。
愛がどれほど甘美なものか、見ればわかるだろう。
信じないのなら、妾を味わってみるがいい、
他人の愚かな言葉を鵜呑みにしている者共。
妾は甘さそのものなのだから。

蝋に刻まれた恋人

私は願うが、許されない、
美しく(エスプレッソ)作られた蝋の仮の顔から
空しい口づけを奪い、
自分自身を騙すことすら。
もし、不幸にも大胆に
自らの唇を彼女の唇に近づけたとしても、
その蝋像は吐息の火を、
優しくも柔らかくも感じてはくれない。
私は何を恐れている? 全く愚かな。
蝋でできているのに(ああ、悲しい事に)、
かの女は私には、石像よりも冷やかで冷酷。


【蛇足】この時代は古典の神々が急速に商品化され、価値観が揺らぐ不安があった。すぐ溶けてなくなる素材なのは、それもある。

ジャンバッティスタ・マリーノ⑩ライプニッツ

(拙訳)

17世紀初頭の哲学者・詩人マリーノと、17世紀末の哲学者・詩人ライプニッツの間には、時間的にも地理的にも互いに可逆な位置関係にあり、それぞれ、一時期、第二の祖国として機能したフランスの両側であるイタリアとドイツで生まれた。マリーノは1615年から1623年までパリに住んでいた。ライプニッツは1672年にパリに到着し、1676年末まで滞在した後、ロンドン、オランダを経てハノーファーに定住した。「単子論(モナドロジー)」が出版されたのは1714年でマリーノの「聖講話」からちょうど1世紀後のことである。

ライプニッツがモナドに帰している主な性質は、原型的なマリーノの作品世界にもある。後者は至高のモナドであり、ライプニッツが神のイデアを指定するモナドである。

ライプニッツによれば、各存在の内部には無限の連動する存在があり、各個人の不可分の閾値は無限に押し戻される。16世紀末のアルチンボルドや、17世紀初頭のジョバンニ・バッティスタ・ブラチェッリニコラ・ド・ラルメサン2世が、果物や本やバネの集合体からなる不思議な図形を描いたり、彫ったり、彩ったりしたのは、おそらくこのような直観が、まだ黎明期で、いかなる理論化からもかけ離れていたためだろう。


アルチンボルドふう北斎

マリーノは「アドニス」の最終オクターヴで、平和をもたらすヴィーナスの庇護のもと、人間と神々の社会(天/地/地獄)の和解が普遍的な平和へ回帰することを喚起した。同じように、ライプニッツは「単子論」の結語で、普遍的な和合、今後すべての霊魂の集まりが神の都市を構成する・つまり現れうる最も完全な君主が、完璧な国家を成すに違いない、と締め括った。

(Via "La scène de l'écriture : Essai sur la poésie philosophique du Cavalier Marin 1569-1625" )

ピエール・ド・マルブフ④すべての鼻の模範

あなたが口を開き、太陽に
その堂々たる鼻を曝せば
バッカスすらその鼻を惜しむ、
そっくりの鼻をセイレーンに与えた過ちで──
鼻と、あなたがしかと立ち止まり
唇を内側に引き締めれば、
あなたの鼻、すべての鼻の模範は
太陽の影を歯に落とす、
そして時を刻む。

(Via Hutton, James ,1946. The Greek Anthology in France and in the Latin Writers of the Netherlands to the Year 1800. Ithaca: Cornell University Press. p. 456. )


【蛇足】ワイドスクリーン・バロック☺

涙を誘発させれば必ず甲子園の土を持ち帰る高校球児の帰巣性を利用することでワープ航法を可能にした世界 (Via id:zzz-zzzz )

クロード・ル・プチ③Ye 4920

呪われた柱、
今、オジロワシの鳴き立てる場と化した。
モンフォーコンよ、おまえのすのこ板に上ると、
苦痛よりも恐怖が強い。

(大矢タカヤス 訳)


【余談】1️⃣ル・プチには「滑稽なウィーン」という詩集もあったらしい。彼は、イエズス会の矯正を拒んで僧侶を刺して海外逃亡しスペイン、イタリア、オーストリア、ボヘミア地域、ドイツ、オランダ、イギリスを旅した。さすがに「北のヴェネツィア」サンクトペテルブルクには行かなかったようだ。

2️⃣この詩人が、王室の倫理に刃向かった見せしめとして火刑に処された翌年(1663年)、オランダ・ライデンで「美神たちの淫売宿」が出版された。詩人は原稿のコピーを友人の一人、シルデベック男爵に送っていたのだ。男爵が印刷させた本は、国立図書館に1部だけYe 4920という番号で保管されていた。

だがこの蔵書は、19世紀半ばに何者かの手によって姿を消す。
権力が亡きものにしようとした陰謀が想定される。

しかし、エドゥワ・トリコテルとアルフレッド・ベジという2人の愛書家がそれより前に別々に内容を書き写して保管していた。その2人の筆写をもとに、1910年「美神たちの淫売宿」はフレデリック・ラシェーヴル社から 200 部発行された。

3️⃣末期の言葉は「C’est fini.」(アンジェリク内輪うけ)

ジャン・ド・ラセペド④乾木とパロディ

(拙訳)

「定理」より

緑木をしてサタンは我らが最初の母を誘拐せしめた:
乾木をしてイエスはサタンのかどわかしに抗った。
緑木は我らが母を地獄に隷属せしめた。
乾木は、母のすべての子らを地獄の炎から救った。 

緑木のサタンはその憤怒が満たされたのを知った:
乾木のイエスは愛が完成したのを知った:
緑木は、すべての生ける魂に死をもたらした:
乾木は(何という驚き !) 死者を蘇らせた。

その日、乾木は緑木に勝利した:
緑木は天界を締め出され、乾木は私たちを
栄光への 開かれた小道へと誘ってくれた。

彼こそはすべてに償われ、すべてに値する者:
このよろこびの乾木こそ、 すべての真実のありか
そして義と安らぎがくちづけを交わすところ。

【蛇足】なぜ緑木より乾木がよいかというと、炎=神とつながるのに、水分=罪はない方がよいから。

で、☝️この作品のパロディを書いてる方を~…のでー、以下に拙訳

彼はすべてを満足させた: 彼はすべてに値する、

この乾木の上で、歓喜は真実に到達する :
そこには正義と平和が睦み合う。
酔っぱらったグラスの中のサタンは、私たちの魂の歓喜を飲みこんだ。
イエスは魔法でグラスを再び満たした: 地獄の美しいグラスは吐瀉物に変わった: しかしそれはブランデー、地獄の効果だ !

サタンは自らの暴力がアルコールによって満たされると思っていた。しかし、イエスは「友よ、お互いを愛せ」とも言った! 素晴らしいガラスは、命の美しさに値しないが、歓びのおせっくす (何という不思議!) は、すべての人に命をもたらした :

その日、良いおせっくすが、すべての変態性に勝利した。しばしば敬虔なタルチュフ *1 、彼の想像上の神は、非常に隠された方法ですでに己をお見透しだ。

精神は穏やかになった。なぜならば、真実、
この歓びのおせっくすこそ、人の神性のありか

そして、聖体拝領と狂気が口づけをかわすところ。

*1:モリエール劇の登場人物で、聖人君子の仮面を被った偽善者

アブラーム・ド・ヴェルメイユ②キスの和音はルール違反

(拙訳)

愛のキスは、音楽のオクターブだ。
だが1つ手にしたあなたは、2つ目を手に入れようとする。
なぜ、愛で和音を奏でるの ?
それはあなたが言う様に、理論への罪を犯す事。

【蛇足】和音のない猫ヲルガン

イランとフランスのグリサンド

17 世紀のイランとフランスは、奇妙にも並列して見える──強力で神聖な君主権が確立され、その統治手段として宗教が形式化された点が(反シーア派、国教化、ナント勅令の取消) 。いずれも反- 神秘主義を伴った。フランスの場合だと 17 世紀末、フランソワ・フェヌロンがボシュエとの論戦に敗れ、精神の遺贈すら可能にした神秘主義に歯止めがかかった。イランの場合は1630年ごろからの20年間に、サファヴィー朝のスーフィズム/メシアニズムに反論するシェイヒュルイスラーム*1 であるアル・クミらのエッセー(西欧未紹介)約20 本が発表され、大宰相を含む聖職者の体制は崩壊した。それ以降法学者・神学者たちは、権力に都合の良い合理主義を促すようになった。
フランスにキリスト教神秘主義的なバロック詩人が現れたのと時を同じくして、イランのタレブ・アモリ (1586~ 1627)は多くの神秘詩を書いた。
(拙訳)

「まるで花嫁たち」の髪型のように、
私の人生という糸は、結び目が連なる
それほど頻繁にこの魂の絆は
ほつれ、その度に結わねばならなかった

(Via https://iranicaonline.org/articles/taleb-amoli )

芝生はミントの春に略奪され
あなたの手の花は角よりも鋭利だ。

【蛇足】シャルル・シピエが往時のペルセポリスを描いた版画は眼福。

ピエール・ド・マルブフ③海と愛は分ち合う

(拙訳)

フィリスへ

海と愛は、その苦さを以て分ち合う
海水は舌を焼き、愛は胸をえぐる
人は海と愛に足を取られ沈む
なぜなら、嵐から解放されることはないから。

海が怖ければ、決して浜辺から出ないように
愛から受ける痛みが怖ければ、
その猛火を拒みなさい
どちらも、苦しみの中で自分を見失う事なく生きられるだろう。


(via https://www.anglaisfacile.com/forum/lire.php?num=3&msg=79398 )


【以下蛇足】
1. アンヌ・ブロシェは1990年のアヴィニョン演劇祭でバロック詩を朗読したが、おそらくこの愛らしい詩も、演目に入ってたのではないか。(「ロクサーヌが読んでいたもの」と題した朗読会を行った)

2. 「グリードフォール」という17 世紀をイメージしたゲームにこのバロック詩が出てくる(実績/トロフィー名「愛と海-LOVE AND THE SEA-」)

3. 2019 年、香港の古楽楽団がこの詩をモチーフに作曲、フランス人による朗詠を交ぜ上演。さすが国際都市(当時)。


4. 2024 年、古典をモダンにするというフランス・テレビジョンの音楽・教育プロジェクトでラップ化された。

ジャンバッティスタ・マリーノ⑨愛は鍛冶屋、キスの鍛冶屋

「アドニス」… 主軸はヴィーナスとアドニスの悲恋物語。

🥳初版刊行 400 年記念🎊

(拙訳)
…「お教えください、女神様」 片方が問う「あなたのこれらのキスは心からのものですか、ただの唇からのものですか」相手が応える「私は唇を噛むことで心からのキスをします。愛は鍛冶屋、キスの鍛冶屋。心が蒸留し、唇で叩き出す。魂がもっとも悦び、言葉は少なく。私たちがしているのはキスというより互いの愛を届けあう動きの早い赤褌野郎です。 貪欲な舌が寡黙に語り、その深みは沈黙で感じられます。溜息とキスは私の心のもの、あなたにキスすることはあなたの心を噛むこと。 燃え盛る魂は、互いに抱擁できる唯一の方法で応えあうのです」…


…このように黒騎士が話し終えると、白騎士は堂々と応じた。
拙者は正論ではなく、武器で戦い、
鉄の舌で貴公に答え申そう、騎士であるからして…


網は糸の網で、空気に満たされた毛皮を打ち、
それぞれが手と脚の軽快さを使って追いかけ、
集める方法を考案する。

2人のうち、より熟練した手が勝ち、
ポイントを取り、その場所をマークする。
ボールが当たらないか、ロープに当たってしまうと、
そのラウンドは負けとなる。

私が彼と競う試合は、フェンシングの達人同士が
巧みにぶつかり合うようなものだ。
一撃はまっすぐに、今度は十字に、
今度は下から、今度は跳躍しながら、
今度は低く、今度は高く。

スッと飛んできた一撃は空中で受け止められ、
今度はジャンプを要求される。
膨れ上がった革は打ち出され、
速くも遅くもあちこちに飛んでいく。
時には屋根の上を遥かに飛び、
または紐に触れることなくその上をかすめ、
巧みな手腕に支配され、
地面をなぞることも高く跳ねることもない。

片方を打てば、もう片方で打ち返される。
私たちふたりは、まるでマルスの珍しい決闘のように、
時を合わせて右手を動かす。
また同じように、巧妙なトリックや斬新で
予期せぬフェイントを加える。
例えば、彼がある場所に向かってうなずくと、
突然別の場所にボールを向ける。

各自がすでに2点を獲得し、同点になったところで交代し、
どちらが勝ってどちらが負けか
決着がつくまでゲームを続ける。
各自が有利になるように、どうすればミスを避けられるか、
どうすれば得点を稼げるかを研究し、
慎重に拳と足と目を連動させて進む。

何度も何度も、われわれはあちら側へ行き、こちら側へ行き、
そして同じ姿で戻ってきた。
そのとき、見よ、残酷な円盤が用意され、
悲しいかな、ついに勝負が決するのだ。

 


太陽は大航海に疲れた旅人である。
ヘスペリアの最果ての岸を訪れようとする。
空は紙であり、闇はインクであり、
太陽の光線はペンである、

一方はその長い航路の終わりを西の青空に
鮮やかな金色の文字で書き記す。
太陽が消え、星が現れると、
野原には人がいなくなる。

宿をとる者もいれば、
森の葉の茂る青々とした木陰に休む者、
宮殿のさまざまな部屋に、それぞれ宿をとる。
小さな町のあちこちの家に寝泊まりする者もいる。
また、田園に寝そべったり、
弓やテントや野営地で一日を待つ者もいる。

しかし今、黄金の住まいを去り、
ガンジス川から金髪の髪を引き抜いて、
インドの地を素早く出たアポロンは、
磨き上げられた兜と輝く蹄鉄の
上質な金属に映る己の姿を見るために、
飛翔する馬の背に鞭を打っていた。


この木がどのような木であるかを十分に理解するには、
その実を一つか二つ味わうだけで十分であろう。
しかし、この木は実が豊富で、
食べ過ぎてしまうほどである。
ヘスペリアの黄金の木のように、リンゴが豊富で、
揺すって一個のリンゴを取ろうとする者は、
千個のリンゴを地面に落としてしまうほどである。

数え切れないほどの祖父や孫、
父や息子たちのことはさておき、
最良のものだけを扱おう。

百合の花の足元に彫られた
アルファベットの10番目の要素をご覧なさい:
その名は、天が不滅の栄光を約束する
王家の若者の名である。

彼はその輝かしい名声から
不滅の栄光を得るであろうが、
それは彼の父の永遠の模範にほかならない。
その父は、その壮大で甚だしい行いのために、
たとえ邪悪で憎むべき運命が
彼に逆らうかもしれないが、
それでも王の不死鳥となり、
敬虔と正義の王座と神殿となり、
平和におけるヌマ・ポンピリウス、
戦争におけるアレキサンダー、
真の神、地上の生きた光となるであろう。

世界にとって栄光の鏡であり、
あらゆる善の花である王の息子であり、
その勝利は彼の戦争以上に
永遠の栄誉をもって記憶されるであろうから、
彼は最高の賞賛を受けるであろう。
彼は、彼の家系の王国と美徳の両方を受け継ぐ、
幸運で立派な後継者である。

どのような弁士が、あるいはどのような詩人が、
たとえ有名で神聖であったとしても、
自由詩や調和のとれた小品で、
彼についてこれほど多くを
語ることができるであろうか。
そのあらゆる脈絡が尽き、
あらゆる力が使い果たされたとき、
虚弱な精神はいかにして彼を観想し、
畏敬の念を抱いた舌は
いかにして彼の崇高な行いを語りうるだろうか?


水星訪問場面の解説
アドニスと彼の三人の案内人(アモール、ヴィーナス、マーキュリー)が水星の天へと昇る場面で、マリーノは、芸術の宮殿を長い間想起させるという独創的な方法で説明している。
水星の空に浮かぶカントー10世宮の「芸術の宮殿」は、「記憶の場所」のひとつであり、その「記憶の場所」は4つある。

第一に、芸術は「理論」と「実践」、関連する知識とノウハウとして、最も一般的で慣習的な意味で考えられている。これらは、宮殿の広大な中庭を囲むように、それぞれの工房に設置されたリベラル・アーツ及び工学、地理学、神学、法学、医学のアレゴリーによって表現されている。

第二に、過去-現在-未来の発明家や文明人が住む工房の描写を通して、芸術は、最も多様な分野において人間の精神に内在する可能性を明らかにする。(人間の創造~蒼頡の鳥跡発明~オートマタの製作~楽器の製作~時間の計測~火の発見~風を使いこなす~鏡の使用~紡錘の発明~戦争と平和の芸術~現代)

第三に、図書館である。芸術の宮殿の上層階に位置するこの図書館には、これまでに書かれた、あるいはいつか書かれる運命にあるすべてのテキスト(彫刻、手書き、印刷物)が収められている。ここで著者が目指したのは、情報提供でも祝賀でもないが、図書館をその「普遍性」「調和のとれた配置」「永続性」という点で、本物の「記憶の劇場」として扱うことであったようだ。

最後は、世界圏の略称である水星圏である:冒頭から、マリーノは最後の場は、これまでのものをはるかに凌駕する素晴らしさを持っていることを告げる。その理由は、芸術がその通常の模倣的あるいは発明的機能を超越し、真にデミウルギー的な次元に達したからである。

現場に到着したアドニスは、金製の台座の上に「惑星と星座の軌道を表す鋼鉄の円に囲まれた、巨大な水晶の球体」を見る。この「超人的な作品」の作者は「あらゆる創造された心を惑わせ」「他のいかなる芸術作品の限界をも超える」マーキュリー自身であり、神の作品の「模倣者」としての立場である。この作品が自分の最高傑作となるだろうと、考えているマーキュリーだが、球体の創造は水星のミニチュアの再創造にほかならないようである。


<天界と神羅万象>
「アドニス」の天界には、感覚的世界を超えて、原初的世界、超知性的世界、そして知性的世界という「曖昧な」実在が存在する。後者は、グレコ・ローマ神話の膨大なパンテオンによって示され、作者にとっては、精神の宇宙の多面性をも表している。
また、マリーノは宇宙それ自体を、現実世界の変化するイメージを形成する、多数のアナモルフォーゼのフラクタルをなす、巨大なアナモルフォーゼと見て取った。


<鏡と刻印>
マリーノの作品では人間のimago Dei が「不滅の美の唯一無二の刻印」であると同時に「神の偉大な筆による最大の作品」と表現されている。
人間だけが神の「顔」の肖像であり、他の被造物は神の「背」の表象にすぎないのである。
また、他の詩では聖母のモチーフと鏡のモチーフの間の同位性によって、キリストの受肉に起因する鏡面的・虹彩的な性格を見ることができる:ちょうど、太陽が月の表面を照らし、純粋に鏡面的な方法でその光を我々の瞳に届けるように。

(Via https://www.mariefrancetristan.com/ )


【蛇足】「アドニス」、小さな図書館ほどの大きさの、バロック趣味の巨大な記念碑(エリック・バトラー)

(R指定男子向け) テオフィル・ド・ヴィオー

風刺詩

公爵よ、貴君はお元気ですか?
君はどのように人生を過ごしていますか?
もし君が今日しなかったならば、
これらの詩で君は(あれを)したい気になるだろう。

君は陽気ですかね? 元気はつらつですかね?
君は病いが治癒しているのを気づいていますかね?
この c..llon は非常にデカいのですかね?
君は小便をする時に痛みを感じますかね?

私は、君のごとく放蕩にこれほどまでに夢中になっている
青年をこれまで一度として見たことがありませんでした。
でもそんな君が私は大好きですよ。
かかろうとしないいかれてしまった牝驢馬よ!

君の精神は、そんなに強靭でもそんなに申し分ないわけでもないので、
自然の流れに従って、
売春窟の代わりに、
墳墓のことを長々と弁ずるだろうね。

しかし君の精神は、かくも冷静な沈思黙考の中で夢想するのに
一体何をそんなに利用するのだろうか、
神がわれらにしなやかな神経とぴんと引き締まった膣を
保持することを望まれている限り?



賭博場の世話婆さんたちよ、われらがこのように
怯える(おもらしする)のをからかっているのですか!
ふぐりのジュース(小水)が雨水のように降ってきたら、
あなた方は軒下に雨宿りするのでしょうね。

しっこで日仏友好

(井田三夫訳)
テオフィル・ド・ヴィオー全集

(R指定) クロード・ル・プチ②

🦫姦淫する十四行詩


【関西風拙訳】

ケツを掘れ *1, お○こを犯せ
お○こする天国と地獄、
お○こする悪魔といかづち、
お○こするルーブルとモンフォーコン。

お○こする伽藍とバルコニー、
お○こする平和と戦争、
お○こする炎、お○こするガラス、
お○こする水神とヘリコン。

お○こする召使いと主人、
お○こする司祭と修道士、
お○こする腐れち○ぽと外道お○こ。

お○こする、みぃんな一緒に、
お○こする本と読者、
お○こする十四行詩、自分どう思う ? *2



「美神たちの淫売宿」より

🐓滑稽なパリ


俺の靴、 俺の靴下、俺の外套、俺の襟首、俺の手袋、俺の帽子、
何から何まで同じ色に染め上げる。
こんな姿を眺めると
俺だか糞だか分かりゃしない。




【蛇足】 👇こっちの方が下品。

フランス語は素晴らしい、特に罵倒語が。『のーんででゅーでぷりてんぼーどでゅめゆでゅさろぷりこなるどきゅいでためーるしーず』…シルクでケツを拭く気分だ。


────「マトリックス リローデッド」

*1:当時、肛門性交は死罪

*2:最後の三行詩は、メタ詩になってる

アンドレア・ペルッチ

まるで17 世紀のナポリの群衆が周りにいるかのようで、私は涙を流しながら観劇していた。(ベネデット・クローチェ、1888年)

羊飼いの歌

「羊飼いの歌」(La cantata dei pastori) は、聖夜のナポリで演じられる音楽劇の中でも、今日では上演が珍しくなった作品で、聖母マリアとヨセフの神秘劇に、コメディア・デラルテのキャラクター、古代の伝説(ベファーナ・クリスマスの魔女) 、福音書の外典をブレンドしている。プロットは、多種多様な悪魔黒天主魔肖が共謀してイエスの誕生を阻止するため、落とし穴を掘ったりして暗躍し、書記官ラズッロはその真中で翻弄される。マリアとヨセフ、大天使と悪魔、飢えたラズッロは老いた羊飼いのアルメッツィオと狩人の息子のシドニオと幼い息子ベニーノ、漁師のラスチェッロなど、それぞれと関わりあう。タランテッラ、ビラネッラ *1、パストラッレ *2 が奏でられる。 

洞窟の向うにある山の頂上で、羊飼い・アルメンツィオの息子ベニーノは干し草の上で眠り、悲劇で目を覚ます。プレセーペ *3 が消えてしまったのだ。
ベニーノは、罪の山頂から救いのふもとまで下る夢を見ている。ベニーノの羊が7頭 (奇数)なのはバビロンの悪徳を表す。アルメンツィオは12頭の羊 (年の瀬12 月、人生の終わりを表す)。2人は旧年と新年、ベニーノの目覚めは通過儀礼とクリスチャンのクリスマスを象徴する。(プレセーペの数はスモルフィア・ナポレターナ *4 の72「驚き」とも関連)


〽️悪運よ、お前は頑固者だ
わたしに立ちはだかり
そこまで無慈悲なのか、叫ぶしかない
わたしの求めるのは、気分爽快
お前の求めるのは、死屍累々
美しいひとよ、黄金の珠よ
幼い鳩よ、かわいらしい精霊よ
わたしの許を去らないで…

ラズッロのナポリ語の方言は、韻を踏んだ連作文にもなっており、ラズッロが最初に登場した瞬間から、ベニーノが不思議そうに彼に、この世界の住人か否か聞くと、実は彼はかつて「パレポーレ」と呼ばれ、今ではナポリと呼ばれている別の世界から来たのだ、と答える。ナポリ気質は、その豊富な滑稽さを劇にもたらした。

さらにこの劇は、クリスマスの物語がメロドラマに似ていることを指摘する。コメディア・デラルテの主流であるコメディー、一方では宗教ドラマ。悪魔やドラゴン、素朴な庶民の誇張されたおちゃらけぶりが笑いを誘う。ラズッロを見て笑ったあとに、マリアとヨセフの旅に純粋に宗教的な気分を取り戻そうとするのは難しい。 

しかし、ラズッロとキリストの間には、不可思議な、ほとんど神秘的な相似関係がある。キリストの生誕地の舞台上の道化師ラズッロは、人類愛のための愚者としてのキリストのイメージを想起させる。その中での喜劇的統一と豊穣、そして新たな社会秩序を謳歌する場面は、この劇のフィナーレでしか表現できない。

初期のクリスマスのお祝いに、異教のエネルギーが満ちていたことを示唆する。


【蛇足】愛とは目に見えない毒であり、少しずつ血液の中を循環する(ペルッチ)

*1:軽い世俗的なボーカル音楽。最初ナポリに現れ、マドリガルにも影響を与えた

*2:羊飼いの音楽を模した曲

*3:キリスト降誕の場面をミニチュア模型などで再現したもの

*4: https://smonapo.wiki.fc2.com/ に詳しい

フィリッポ・スグルッテンディオ

(従業員 2 名+α による訳)

罠に掛かったねずみと、男を比べてみれば


可愛いネズ公、おまえと私は愚にも同じ運命のようで、しかも破滅ときている:
匂いにおびき寄せられてチーズに突進するおまえ
私のチーズでありパンであるケッカ*1に突進する私
キューキュー金切り声を上げるおまえ、ため息と痛苦の叫びをあげる私

罠の金属に牙を当てるおまえ、自分の指を噛む私
猫が犬に追われたように身を踊らせるおまえと私
囚われの身のおまえ、心の自由を失くした私

おまえの小さな胸は高鳴り、私の心は張り裂ける
おまえには死が待ち構え、私には末まで望みがない
おまえは恐怖でいっぱい、私は苦悩で満たされる

つまづいたのは同じ: 美味しいチーズ一切れで、おまえはたった一度の命を失い
愛しいケッカは、一度ならず何百回も
私に辛酸を嘗めさせ続けるのだ

*1:ケッカ Cecca = フランチェスカ Francesca の愛称 Checca の、古ナポリ訛り ?