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公式ゆるキャラ:ゆがみ金銀パールプレゼントくん

名匠列伝

ジャン・ド・ラセペド(1550?-1623)

17 世紀のインクリングズ。古代神話をキリスト教で再解釈し「異教のミューズをクリスチャンのミューズに変えた」と、フランソワ・ド・サール (ほぼ同時代に活躍した、作家・記者の守護聖人)をして言わしめた。

1550年頃にマルセイユ(カトリック文化の要地)で生まれる。父はジャン=バプティスト・ド・ラセペド、母はクロード・ド・ボンパール。偶然にもアヴィラのサンタ・テレーサの親戚筋にあたる。
大学では法律の博士号を取得し、プロヴァンスの高等法院顧問官をつとめた。
ガリア派の裁判官たちの王党派精神を代弁する最も優れた人物でもある彼は、カトリックの詩人として、中世フランス語で詩を書いた。プレイヤード派 (七星詩派) として出発し、最初の作品「ダビデの詩の模倣」を発表したのは、1594年のフランス宗教戦争の終わりごろ。難破をテーマにした瞑想の中で、彼は「魂を捨て、貧しくなったフランス」が安全のために十字架に舵を向け「善良なダビデ」を「この危険な航海の導き手」に例える。詩篇を言い換えたり模倣したりすることは、当時の一般的な取り組みだった。
実際に彼はユグノー戦争で崩壊した、プロヴァンス信仰共同体の再興計画として詩を作っただけでなく、伝統あるレ・ゼガラード修道院(裸足のカルメル会)に資金援助を行い、施設の再建・維持を可能にし「レ・ゼガラードの聖人」と称えられた。
1613年と22年に、あわせて515のソネットからなる「定理」を出版した。ここでの「定理」とは、「瞑想」を意味し、ソネットは、オリーブ山の夜から、キリストの受難を「瞑想」しながら、叙事詩を紡いで行く。技巧的には、さまざまな押韻を採用し、定期的に句またがりを使用して、終止符の単調さを和らげ、リズムとトーンを変えていった。ゲッセマネの園で祈りを捧げているキリストのひざまずく姿勢を探求するソネットの様な、読むバッハの受難曲、とでも言うべきメロディアスなものもあれば、象徴的イメージの輝きが目を引く、視覚的に豊饒な作品も多い。さらに各ソネットには聖書的・愛国的な情報源、特にトマス・アクィナスの「神学大全」に繋がる解説が提供されているという博学ぶりであった。また「定理」はイグナチオ・デ・ロヨラ「霊操」に極めて忠実との説もある。 彼はエティエンヌ・ド・マンタンの未亡人と結婚した。結婚式は1585年4月30日に行われた。アンジェリークという娘を持った。1611年2月には、アヴィニョンの従者Accurse de Faretの娘であるアンヌ・ド・ファレットと再婚した。宮廷を去ったマルグリット・ド・ヴァロア (a. k. a. 王妃マルゴ)のサロンに参加した。宗教詩の一部を献辞した写本が残る。1623年没。1915年、アンリ・ブレモンに再発見され、1945年以降研究が進んでいる。


ジャン=バティスト・シャシニェ (1570-1635)

エナルゲイア(ενάργεια)とは「言語を媒介とすることによって、実際には現前しない対象を、聞き手や読み手の眼前にあたかも見ているかのようにすること」これは正にシャシニェの作品の形容にふさわしい言葉だ。

ブザンソン(カトリックとプロテスタントの境界地帯)で医者の家に生まれる(父親は共同知事も兼任、ただし軍医を務めたかは史料からは判らない)。はじめは郷里で、後にドール大学で法学を修める。非常に若く詩作に筆を染め、激しい恋愛も体験したが、二十歳のときに悔悛した。1594 年に 434 のソネットとスタンスからなる「生の軽蔑と死の慰め」を発表したが、この詩集には晩年のロンサールの詩篇やモンテーニュに通じる、生は死の仮装というバロック的な死の意識が、激しく、ドラマチックに表現されており、三十年戦争を経た「生の軽蔑」はグリンメルスハウゼン「ジンプリチシムス」と並べて語られることもある。
☺️マルク・フマロリによると、シャシニェとオピルの詩は、フランス・バロックの雄弁と修辞のよき使い手として、ジャン=ジョゼフ・スュラン (※ケン・ラッセル「肉体の悪魔」のモデルになったひと) *1 の神秘思想に匹敵する。
☺️『ル・メスプリ(Le Mespris de la vie et consolation contre la mort)』では、音の不在が死を特徴づけている。
☺️後半生はグレーに移り、財政顧問官をつとめ、ダビデの詩篇を翻案した作品などを作った。
☺️シャシニェの最高傑作は「ダビデの詩篇百五十篇のパラフレーズ」とされている。多くの宗教的バロック詩人と同様、シャシニェはブザンソンのイエズス会と、当時スペインの支配下にあったこの地方で非常に強かったカトリック宗教改革と結びついていた。
☺️歴史家、弁護士、勺放者(聖書釈義の資格を持つ者)でもあった。
☺️20世紀の評論家、サイモン・A・フォスターズとカトリーヌ・グリースは、16 世紀スペインの散文に多大な影響を及ぼした、アントニオ・デ・ゲバラ修史官(1480-1545、後述) による「王侯の日時計 (Reloj de principes)」がシャシニェと深く関わっていると主張し、スペインのフランシスコ会とこの詩人を関連付けた。


クロード・オピル (1580? - 1633?)

オピルのインスピレーションは「偽ディオニュシオス」(後述)ら文書群に基く。フランス・バロック詩の時代は、古典のテーマを捨てた壮大なキリスト教詩の時代でもあり、詩人たちはしっかりとした神学的知識を持った、真の神学詩人と呼ぶ事ができる。*2

☻ オピルは「バロック」と「神秘主義」の両方に属しており、アビラのテレサや十字架のヨハネとも並んで引用されている。オピルの作品の面白さは、間違いなく、文章と神学と霊性の間の、この対決ともいうべき出会いにある。精神生活の中で積極的な役割を担う彼にとって、書くことは思索のリレーであり、詩人は繰り出す言葉によって、神への願望を具体化し、流浪の時を探求の時とし、現在から神の賛美に参加するのである。
☻ カトリック改革半ばのパリで、金融業を営む家に生まれた。円熟期の作品の献呈者は、ほとんど全員が代議士に属していることは、文学サロンからも教会的な地位からも開放され、名を残さなかった彼が、この世紀の出来事に決して無縁ではなかったことを示す。(信仰的に保守的なエリート層をパトロンにしていた、という話かも)
☻ ラセペドの『定理』では、オピルにおける天使の模範的な役割を、使徒達が占める、と対比できる。
☻ オピルは、宗教的なテーマに詩の原理を適用するのではなく、神学的な考察から文章の原理を引き出す。神学や霊性の作品は、作家の詩学の真の源泉を提供し、彼の創造力の多くは、文章の観点から献身的な作品を翻訳し解釈する能力によってもたらされるのである。それは古くからの確かな伝統の一部であることに変わりはない。
☻ オピルは有名な音楽家の宮廷歌謡曲をもじった歌詞を作った。だがリュート伴奏で、サロンで演奏するためのものではない。詩篇141のように、一人で終日歌い続けることを想定していたのだろう。
☻ オピルはシエナの聖カタリナ、ジェノバの聖カタリナ、聖テレジアなどの幻視を記した文書からイメージを盗用している。不死の魂を蝶のイメージになぞらえる、信仰を愛の傷とした矢のイメージなど。
☻ オピルにとって、すべてのキリスト教徒は神の歌い手であること、あるいは神の歌い手となることを求められている。
☻ 20世紀、ポール・クローデルらはオピルと同じく「詩は神の言葉に応える言葉」という立場を取り、神学詩の復興を志した。
☻ オピルの手による讃美歌は一曲だけ発見されている。その一番:
(拙訳)

〽わがたまは なにをかのぞむ
ただまつは てんのわけまえ
こころみち なにもほっさず
もとむもの みかみしる

ピエール・ド・マルブフ (1596-1645)

「私の恋心は蜜蜂と同じ、私が花を見つけると、そこに蜜を見つけてくれる」

16世紀末には、マルブフの名を冠した2つの家系があった。一つは非常に古い起源をもち、レンヌの議会で何人かの大統領を輩出した (現在のパリ8区にある「マルブフ通り」と、メトロの旧「マルブフ駅」の由来)。われらが詩人は、完全にノルマン起源であり、祖父の代から騎士の称号を得た。孫のピエール・ド・マルブフはノルマンディー州・ルーアンに生まれ、ユメアとサハールの一部の領主だった。
メイン州のラ・フレーシュ大学で学び、 デカルトと同期で、法律を勉強した。彼は後年になってもこの地を愛し、花壇や芝生、東屋、菩提樹や栗の木陰の広い並木道に囲まれた大学の高貴な建物を感慨深く思い出している。
学生時代、エレーヌ(本名かどうかは不明)という女性に激しく恋し、一年で終わったが、尾をひいた。しかし、「愛の奇跡」では詩の中にマドレーヌ、ヴァリアーヌ、シルヴィ、アンヌ、ガブリエル、そしてフィリスが現れる。実在するかは別として、彼女たちは詩人のインスピレーションだった*3
モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴの脇には学校と本屋の地区がある。そこのクラモワジー&シャブレで「サヴォワのセレニッシム公ヴィクトル=アメーデと国王の妹マダム・クリスティーヌの幸せな結婚についての詩」(1619年)を出版。サヴォワのヴィクトル=アメーデとアンリ4世の結婚の際に作曲されたこの曲は、マルブフがサヴォワ家から受けた大きな義務に感謝するために作られたものだが、どれがどれなのかは正確にはわかっていない。*4
詩人として華々しくデビューした後、詩人の集まりにも属した。小さなアカデミーは、サント・ジュヌヴィエーヴ(現在のクジャス通り)近くのサンテティエンヌ=デ=グレ通りにある「ピアット・マウコール」と呼ばれる大家の家に集まっていた。
しかし1623年ごろ、わずか2~3年で、グループを離れ、ノルマンディーに引退する。まだ30歳だった。文学的センスを持っていた叔母の喪失に打ちのめされた、という説もある。
しかし、それは結果的に、牧草地や森、水を題材にした詩を書くきっかけとなった。ラ・フォンテーヌに30年ほど先駆けていた。

雪が涙するなら、それは春のせい
柔らかき陽に、心ほどけて流れ出す
氷の心も、愛に溶かされる
水に帰すとは、哀しみか、歓びか。

ああ、私は溶けて消えたい
この世界の抱擁の中で。

1627年2月、ノルマンディー議会・参事官の娘マドレーヌ・ド・グルシェと結婚した。彼はワイフから多大な苦しみを受けたようで、その名も「ミソジニー」と題した風刺詩を出版して復讐を果たし、彼女が最終的に死んでいるのを見る喜びを爆発させた。(管理人注: そんなこと、やっちゃアカンでしょう…)この詩集はオルフェの神話のパロディで終わる:

あの愚妻が戻ってきて留まりたいというなら、アイツが戻ってこれないように、こっちから地獄に行ってやる。

1628年、長男誕生。
1630年ごろ町の廷臣になる。
1633年、次男誕生。この年「政治家の肖像」をリシュリュー公爵司教に捧げた。
1636年、サハールに小さな礼拝堂を建てる権利を受ける。
1638年、後のルイ14世が誕生した時、オーストリアのアンヌ・ドートリッシュが銀のマリア像を礼拝堂に献上し、マルブフは翌年出版された「頌歌」を送った。アンヌはこの詩集を読み親しみ、秘書にお礼の手紙を送るよう指示した。
1645年8月17日埋葬される。


🍘日本におけるフランス 4詩人の受容

一般書としては「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」(著者: ウンベルト・エーコ、 ジャン=クロード・カリエール)で、カリエールが敬愛する詩人として、まとめて言及されている。ニコラ・ボアロー=デプレオーら古典主義者と、ジャンセニズムに葬り去られたらしい。元来古典主義的な抑制の国であるフランスでは、独立的なバロックを侮蔑の対象として文学史から除けてるそう。


ジャンバッティスタ・マリーノ(1569-1625)

カバラや錬金術を背景に、アレクサンドリア・ヘルメス主義の基盤に基づいた異教と、キリスト教を絡み合わせた、オウィディウスの系譜に連なる詩人兼哲学者。

マリーノの家系はカラブリアの出身で、貴族でも労働者階級でもなかった。ジョバンニ・バッティスタは7 人兄弟の1 人で、母の名は不明(1600年以前に亡くなったことだけが分かっている)。父のジョバンニ・フランチェスコは弁護士だった。受けた教育も人文的ではない(彼はギリシャ語を知らなかった) が、少年時代のかなり早くから詩作を始めたという。その後パトロンの衰勢や商売敵との論争、異端審問に左右され、ローマ、ラヴェナ、トリノを経て「成功した逃亡者」としてパリに住み、晩年はより高貴な生活を求めてナポリに戻った。1602年「中世のロンドン」ヴェネツィアで初詩集「ライム」を刊行。1623年の長編叙事詩「アドニス」が最も有名。添削者の無知に作品を歪められる事が多く、その死まで「アドニス」の検閲に反抗し続けた。
直線でない不確かさや疑問の多い人生である。眠っているキューピッドの様々な彫像から、レリーフ、メダルの絵柄まで扱った「ガレリア」に象徴されるように、具象芸術、特に絵画との関係が濃かった。 ナポリとトリノで3回刑務所に入った(1回目は裕福な商人の娘の堕胎を手助けした、2回目は友の性的過失を救うため司教の印を偽造、3回目はサヴォイ公爵の猫背を揶揄した「ラ・ゴブベイド」←ハンチバックの意、という風刺詩を書いた)
マリーノは、後にセチェンティスモ(17世紀、綺想異風派)またはマリニスモ(19世紀)として知られるマリニズム派の創設者と考えられている。諸国に崇拝者がいて模倣された。 ♣️詳細♣️
当代随一の多作で物議を醸す詩人であり、人気のあった頃は、バロックの基準点であり続けた(ヴァチカン市国にもコピーが現存する) が、18~19世紀にバロックは「醜い悪徳」の典型とみなされ、国語教育のブラックホールとして授業では卑下され軽蔑された。しかし20世紀後半に、イタリアが新古典主義の泥沼から脱し始めると「彼の詩は単なる驚きの探求ではなく、矛盾する世界観の中での揺らぎ、哲学的要素を多く含む」と「抜け」てきて、現在再評価されつつある。テクストはベネデット・クローチェとカルロ・カルカテラによって綿密に読まれたのちに、ジョヴァンニ・ポッツィ(「アドニス」を批判的に読んだ)、マルツィアーノ・グリエルミネッティ(著書「マリーノのオペラの発明」)、マルツィオ・ピエリ(著書「騎士のラバ: マリーノからテストーリへの猥褻文学」)、アレッサンドロ・マルティーニ(スイス、著書「英雄的韻文」)、マリー・フランス・トリスタン(仏、著書「書くことの現場:カヴァリエ・マリノの哲学詩についての随想」)を含む多数の重要な紹介者がおり、現在進行形で「決定的資料」が出てきている。


【蛇足】固有名詞は以下も参照。

thry.hatenablog.com 聖人366日事典

*1:https://www.keio-up.co.jp/kup/gift/surin.html
スュランはオムニバスで居合わせた無学の青年が、あるゆる恩寵に属し、見たこともない程の内的賜物に満たされ、彼が粗野な言葉で語ったことに比れば自分が霊的な生について読み書きした事は、物の数にも入らない、じつは天使だったのでは、と書簡に残している。教談の、樵が「まさかりまさかり」と一向専心に唱え悟りを開いた話に似てるような…

*2:デカルトからJ.L.マリオンまで、フランスは哲学と神学の関係が深い贈与の哲学: ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche 2)

*3:リア充。なおグレーヴァーによると、激しい片思いをされた側の文化的モデルは存在しない

*4:分かった範囲で内容をひとくさり──ルイ13世の初期治世に作られた婚礼コースの詩。マルブフはその叙情的な詩才を存分に振るっており、オリュンポスの神々や女神たちが活躍し、この王子を賛美する歌の幸福な結末に介入して力を貸す。特に孔雀を乗せた "エビーヌの馬車" でユーノーがパリ上空を「ハウル」みたいに飛行する場面が素晴らしいそう。【背景】アンリ4世とマリー・ド・メディシスの娘であるクリスティーヌ・ド・フランスは、徴兵されたガストンに次いで、王室の子供たちの中で最も恵まれなかったが、彼女は、1619年2月10日にサヴォワ公ヴィクトル=アメーデⅠ 世と結婚することで「満足」するほかなかった。その後1637年に未亡人となったサヴォワ公爵夫人は、義理の兄弟たちの行動にもかかわらず、1634年に生まれた息子シャルル=エマニュエルⅡ世の摂政権を維持した。