diary

バロック詩の情報。

プルースト

私は、子供たちが小さな魚をとるためにヴィヴォンヌ川のなかに仕掛けた水差しを眺めて楽しんだ。 その水差しには川の水が満ちているが、またその川のなかで水差しは、自分の方も水に包まれており、固形の水のように透き通った横腹をした「容器」であると同時に、液体となって流れているもっと大きな水晶の容器に投げこまれた「内容」でもある。固さがなく手でとらえられない水と、流動性がなく口に入れて味わうことなどできそうにないガラスとは、たえずぶつかりあって絶え間ない頭韻法を繰り返していたが、この水差しの喚起する爽やかさのイメージは、常にこの頭韻法のなかに消えてしまってつかみどころがなく、それだけに食卓に出された水差しよりもいっそうおいしそうで、また見る者の心をいらだたせるのだった。

ガラス=固まった水、水=流れる液体のクリスタル──ここでは、典型的にバロック的な技巧によって、接触している物体が互いの述語を交換し合い、プルーストが大胆にも頭韻法と名づけた、あの 「相互的隠喩」の関係に入っている。その命名は大胆ではあるが、正当なものだ。なぜなら、〔頭韻法という〕詩的文彩と同様、この場合も、まさに類比的なるものと隣接的なるものの一致が問題であるから。それは、大胆であると同時に啓示的でもある。なぜなら、ここでの事物間の協和は、まさに最高の純粋テクスト効果である詩句における単語間の協和同様、その流動的で透明な自己例証的連辞──永遠の頭韻法──のもとに、細心に調整されているのだから。